原宿ストーミーに一本だけ置いてあったシムス1500FEを衝動買いしたのは1984年の冬だった。プライウッドのスワローテールにエッジもハイバックも付いていない今となってはとんでもない道具だったが、オレにはとてつもなくカッコいい未知なマシーンに見えた。
その後オレが現在まで世話になることになるストーミー社長、野末氏の“これはスノーサーフィンって言ってね、急斜面ではサーフィン、緩斜面ではスケートボードみたいに遊ぶんだよ”という言葉以外にスノーボーディングに関する情報を全く知らないオレにとって、初めてのライディングはひどいものだったが、それがひどいものであることすら知らずに2日間ろくに飯も喰わずにナイターまで滑り続け、その後も時間を作っては山に通いまくった。当時ほとんどスノーボーダーを見かけることはなく、当然オレの周りにもスノーボーダーはいなかったのでバイク乗りのスキーヤー達とつるんでいたのだが、彼らの考え出すスキーとモトクロスの原理をスノーボードに適用したまあまあ的確なアドバイスと自らの乏しいスケートボード経験をもとに夢中で滑り続け、あっという間に上達した。当たり前だが他人と優劣など競いようがないこの状況では誰にとってもスノーボーディングは超簡単であまりにも自由な遊びだった。
そして現在。スノーボーディングはメジャースポーツの仲間入りを果たした。あれから20年、この世界のめまぐるしい進化を見ながらオレは今でも滑り続けている。1人で始めたスノーボーディングだが翌年には3人に、3人が15人に、と仲間は年々増え続け、5〜6年後には数えることも不可能なほどに膨れ上っていた。初めてのライディングから数年後にはサポートを受けるプロスノーボーダーとなり、コンテストを転戦しながらパーティー三昧のシーズンを繰り返し、自信満々で威張っていたイケイケ時代。ニュースクールの台頭で疎外感を味わい、シーンから遠ざかったスノーボード人生で最も消極的だったいじけ時代。ニセコでフリーライドの奥深さを知り、パウダーライディングに夢中になっていた再生時代を経て、現在に至るまでの攻めつつもリラックスできるようになったバランス時代、とオレのスノーボーディングに取り組む姿勢もスノーボーディング界同様、変化し続けてきた。しかしオレたち人間がどんなに騒ごうと斜面は相変わらずそこに存在し、冬になればいつものように雪に覆われる。変わるのは人間と人間が創り出す文明だけだ。そのことに気づいた今、1984年の先入観のないオレがそうだったように“自分がどうすればいい気分になれるのか”だけを追求する自分のためのスノーボーディングができる予感がしている。やはりスノーボーディングは超簡単であまりにも自由な最高の遊びだったのだ。
田口勝朗
1966年東京生まれ。グリーンクロージング、ヤオヨシレコーズを扱う八百由のオーナー。経営者でありながら現役スノーボーダーとしてライダーと対等にきわどいセクションを攻め続けることにプライドを持っているようだが、ライダーたちが手加減していることを本人は知らない。
八百由 www.800freedom.biz
(雑誌Fall Line掲載/2004年)